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初めての方へのメッセージ


2018年  12月のメッセージ

クリスマス「キリストの照準」

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

 私達は「クリスマスおめでとう」と挨拶を交わしますが、なぜ、おめでたいのでしょうか。それは救い主が「私」を照準と定めて到来されたからです。

およそ私達の行動には「目的や照準」というものがあり、それ無しに行動することはありません。何か行動を起こすときには、必ず目的を考えます。

「何のために、何を目当てとしてこれをするのか」という目的意識なしに行動する
ことは、まことに
空しいことです。

高崎問屋町駅のホームで高崎方面に行くのか前橋方面に行くのかを決めることは必要不可欠です。それは救い主にとってもそうでした。

なぜ、何のために主イエスはこの世に来られたのでしょうか。クリスマスとは「キリストの照準」を知る日だと言えましょう。主イエスも「救いの照準」をお持ちでした。それは私達、否、私です。

「人類一般」にではなく「私」です。それも「罪人の頭」である私です。

私達は、救いの照準はきっと立派な人に向けて定められているのだろう。あるいは世において地位のある人に定められているのだろう。きっと、真面目に善良な生活を営む人に向けられているのだろうと考えがちです。しかし聖書では「罪人を」とありました。善良な市民にとか立派な方のみにという風には言われていません。

今年のクリスマスには、主イエスは「私」を目的とし照準としてご誕生になったことをおぼえて祝いましょう。


2017年  2月のメッセージ

『十字架の上で』

「わが神、わが神。
    どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

                     
                    マタイの福音書2746

 これは、イエス・キリストが十字架の上で叫ばれたことば
 です。ベツレヘムの飼い葉おけに生まれ、ナザレで大工の
 息子として生活し、ガリラヤを中心に神の国の福音を
 伝えたイエス・キリストは、神のひとり子でした。

 父なる神と愛し愛される他の何ものも入ることの
 できない親しい関わりの中にいる永遠の神でした。
 それでイエス・キリストは、祈る時は「父よ」という
 ことばで父なる神に呼びかけていました。

 しかし、この十字架でイエス・キリストは、「神」という
 ことばだけで父なる神に呼びかけています。
 「神」という呼びかけのことばは、神との親しい関わり
 を持たない人の使うことばです。
 神から遠い人が使うことばです。

 
  なぜ、ここでイエス・キリストは、神との親しい関わりを
 持たない人のように、父なる神に「神」ということばで
 呼びかけなければならなかったのでしょうか。
 なぜイエス・キリストは、神の独り子であるのに神と
 疎遠な人と同じことばで祈らなければなかったので
 しょうか。それは、この十字架の上でイエス・キリストは、
 私たちの身代わりになって、父なる神から見捨てられた
 からでした。

 このキリストの十字架は私たちを罪の報酬である死から
 救い出し、私たちを神の賜物である永遠の生命へ救い
 入れるためのものでした。

 この十字架でイエス・キリストが見捨てられたのは、
 私たちが神から見捨てられないようになるためだった
 のです。


2016年  12月のメッセージ

 『 きょう、救い主がお生まれになりました 』

『きょうダビデの町で、あなたがたのために、
   救い主がお生まれになりました。
      この方こそ主キリストです。』
 
                   
 ルカの福音書2章11節

今年もクリスマスが近づいてきました。店先にはクリスマスツリー
 が置かれて、街の中の木々にはイルミネーションが
 飾られています。クリスマスケーキの予約をした方もおられる
 ことでしょう。

 クリスマスにちなんだポスターなどで家畜小屋の飼い葉桶の中に
 寝かされた赤ちゃんの絵を見たことはありますか?
 実はその赤ちゃんは、生まれたばかりのイエス・キリストのこと
 を指しています。
 イエス・キリストは天の神の御座におられたのに、
 地上の家畜小屋の中に来られました。
 しかも、イエス・キリストは、か弱いあかちゃんとして、
 人々の前にその姿をお現しになられたのでした。
 それで、色んなところから、多くの人がイエス・キリストを
 拝みに来ました。

 もし、イエス・キリストが大きな宮殿の中にその姿をお現しに
 なっていたなら、極一部の人だけしかイエス・キリストに
 近づくことができなかったことでしょう。
 また、もし、イエス・キリストが屈強な大人としてその姿を
 お現しになっていたなら、多くの人々はイエス・キリストに
 会いに行くのをためらったことでしょう。
 しかし、イエス・キリストは、家畜小屋の飼い葉桶の中に
 生まれたばかりの赤ちゃんとして、その姿をお現しになりました。
 そして、イエス・キリストは、その十字架の死と復活によって、
 全世界を死の力から解放してくださいました。
 イエス・キリストによって人は死んでも生きる永遠の命を

 生きられるようになりました。
 このイエス・キリストこそ、わたしたちの救い主です。

2016年  11月のメッセージ

『 ユダの失敗 』

『さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエス
 を死刑にするために協議した。それから、イエスを縛って
 連れ出し、総督ピラトに引き渡した。そのとき、イエスを
 売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、
 銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
 「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と
 言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。
 自分で始末することだ」と言った。それで、彼は銀貨を
 神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、
 首をつった。』
 
                   
 マタイの福音書27章1-5節

「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」   イエス・キリストがユダヤの裁判で死刑に定められ、当時ユダヤを支配していたローマの裁判に引き渡されるタイミングになって、ユダは自分の犯した罪に気づきました。イエス・キリストが死に定められたのを知ってから、ユダは、イエス・キリストを裏切り、売り渡した自分の罪に気づきました。これまでユダは、イエス・キリストを売り渡すことをユダヤの指導者たちに約束して、その約束通り、最後の晩餐の後にゲツセマネの園でイエス・キリストをユダヤの群衆に引き渡しました。そして、ユダは自分のしたことが間違いであるなどとは考えませんでした。しかし、ここに至って、ユダはイエス・キリストに対して行った自分の間違いを認めています。罪を認めています。

なぜ、ここに至るまでにユダは自分の罪を認めなかったのでしょうか。イエス・キリストが死刑に定められるまでに自分の間違いを認めなかったのでしょうか。本来ならユダが自分の罪を認めることとイエス・キリストが死刑に定められることは別のことです。イエス・キリストが死刑に定められようと定められまいと、どのような結果になろうと、ユダはイエス・キリストを裏切るという罪を犯したのであり、その罪をユダは認めて悔い改めるべきでした。しかしユダは、イエス・キリストが死刑に定められたことを知るまで罪を認めませんでした。ユダは、イエス・キリストは捕まっても殺されることはないと考えていたのでした。イエス・キリストは捕まってもそこから抜け出て新しい事を始めると考えていたのでした。しかし、ユダの考えたようにはなりませんでした。そして、ユダの計画はユダと共に倒れました。

このユダのように物事の結果だけを見て行動していると(結果重視の道徳観をもっていると、思い通りにならない事が起きると倒れてしまい立ち上がることができなくなってしまいます。「何をするのか」という結果と共に、「如何に生きるのか」という過程を大切にしましょう。

2016年  10月のメッセージ

 『 カヤパによる審問 』

 「さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、
              イエスを訴える偽証を求めていた。」 
                 マタイの福音書26章59節

 この祭司長と全議会による裁判は、イエス・キリストの死刑という
判決を目的にした偽証にもとづく裁判でした。偽証とは、偽りの証言のことです。ひらたく言えば、嘘のことです。この嘘にもとづいて下される裁きは偽りの裁きです。そこでは正しい人が悪い人とされて、悪い人が正しい人とされます。 真実は闇の中に隠されて、正義が打ち倒されて、神の栄光が汚されて、人の尊厳が傷つけられます。そのような嘘によって成り立つ裁判を開くことは、この祭司長と全議会がもっとも避けなければならないことでした。しかし、彼らは嘘に陥り、イエス・キリストには死刑しかないと決めつけることで偽りの裁判を行いました。 それで、この祭司長や全議会の意向を汲んで偽りの証言をする者たちが次々に出廷してきました。


 箴言にはこのようなことばがあります。「支配者が偽りのこどばに 聞き入るなら、従者たちもみな悪者になる(箴言2912)」。祭司長や全議会のように権威ある者たちが間違った道に進めば、その権威の下で生きている者たちも間違った道を進むようになります。そしてこの権威ある者たちはますます間違った道に進むことになります。これはどんな社会でも言えることですが、指導的立場にある人や指導的立場になくても影響力を持つ人は、自分のことを正して戒めてくれる人を周りに 見つけることがなかなか出来ません。ですから、普通の人が決めつける ことも危険ですが、指導的立場にある人や影響力を持つ人が決めるつけることは特に危険です。このイエス・キリストに対するカヤパによる審問は、決めるつけるものでした。

 このように罪がないのに罪があると決めつけるカヤパの審問により、イエス・キリストは、私たち人間の罪を代わりに負って裁かれる十字架の死へ向かわれました。このイエス・キリストの十字架の死は、罪の ない神の御子が罪人として裁かれる身代わりの死だったのです。

2016年  9月のメッセージ

  『 取って食べなさい 』

  また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、
  これを裂き、弟子たちに与えて言われた。
  『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』。

                      マタイの福音書2626

 イエス・キリストは十字架につけられる前の夜、弟子たちと
 過越の食事を食べていたときに、パンを取り、祝福して、
 それを裂き、弟子たちに与えて言われました。
 「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
 このイエス・キリストが裂いたのは、ただのパンです。

 しかしこのパンは、翌日に十字架の上で裂かれる
 イエス・キリストの身体を指し示していました。
 このパンは、人を罪から救うために十字架で裂かれる
 イエス・キリストの身体の象徴でした。

 このパンを裂いてからイエス・キリストはこう言われました。
 「これはわたしのからだです」。イエス・キリストが
 人の代わりに十字架で死ぬことを、この裂かれたパンは
 教えています。

 では、このイエス・キリストの十字架によって罪から救われる
 ために、私たちはどうすれば良いのでしょうか。

 人はどうすれば罪から救われるのでしょうか。

 その答は「取って食べる」ということです。
 あたかも幼い子どもが食卓の向こう側から母親の差し出した
 パンを取って食べるように、このイエス・キリストのことばを
 信頼し「取って食べる」ことで救われます。

 信仰とは、難しいことではありません。信仰とは、私たちの
 ために十字架に死んで復活したイエス・キリストのことばを
 信頼し従うことです。

 イエス・キリストのことばを信頼し従うことで罪から救われる
 ことを、イエス・キリストの裂かれた身体を示すパンは
 教えています。