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初めての方へのメッセージ


2017年  2月のメッセージ

『十字架の上で』

「わが神、わが神。
    どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

                     
                    マタイの福音書2746

 これは、イエス・キリストが十字架の上で叫ばれたことば
 です。ベツレヘムの飼い葉おけに生まれ、ナザレで大工の
 息子として生活し、ガリラヤを中心に神の国の福音を
 伝えたイエス・キリストは、神のひとり子でした。

 父なる神と愛し愛される他の何ものも入ることの
 できない親しい関わりの中にいる永遠の神でした。
 それでイエス・キリストは、祈る時は「父よ」という
 ことばで父なる神に呼びかけていました。

 しかし、この十字架でイエス・キリストは、「神」という
 ことばだけで父なる神に呼びかけています。
 「神」という呼びかけのことばは、神との親しい関わり
 を持たない人の使うことばです。
 神から遠い人が使うことばです。

 
  なぜ、ここでイエス・キリストは、神との親しい関わりを
 持たない人のように、父なる神に「神」ということばで
 呼びかけなければならなかったのでしょうか。
 なぜイエス・キリストは、神の独り子であるのに神と
 疎遠な人と同じことばで祈らなければなかったので
 しょうか。それは、この十字架の上でイエス・キリストは、
 私たちの身代わりになって、父なる神から見捨てられた
 からでした。

 このキリストの十字架は私たちを罪の報酬である死から
 救い出し、私たちを神の賜物である永遠の生命へ救い
 入れるためのものでした。

 この十字架でイエス・キリストが見捨てられたのは、
 私たちが神から見捨てられないようになるためだった
 のです。


2016年  12月のメッセージ

 『 きょう、救い主がお生まれになりました 』

『きょうダビデの町で、あなたがたのために、
   救い主がお生まれになりました。
      この方こそ主キリストです。』
 
                   
 ルカの福音書2章11節

今年もクリスマスが近づいてきました。店先にはクリスマスツリー
 が置かれて、街の中の木々にはイルミネーションが
 飾られています。クリスマスケーキの予約をした方もおられる
 ことでしょう。

 クリスマスにちなんだポスターなどで家畜小屋の飼い葉桶の中に
 寝かされた赤ちゃんの絵を見たことはありますか?
 実はその赤ちゃんは、生まれたばかりのイエス・キリストのこと
 を指しています。
 イエス・キリストは天の神の御座におられたのに、
 地上の家畜小屋の中に来られました。
 しかも、イエス・キリストは、か弱いあかちゃんとして、
 人々の前にその姿をお現しになられたのでした。
 それで、色んなところから、多くの人がイエス・キリストを
 拝みに来ました。

 もし、イエス・キリストが大きな宮殿の中にその姿をお現しに
 なっていたなら、極一部の人だけしかイエス・キリストに
 近づくことができなかったことでしょう。
 また、もし、イエス・キリストが屈強な大人としてその姿を
 お現しになっていたなら、多くの人々はイエス・キリストに
 会いに行くのをためらったことでしょう。
 しかし、イエス・キリストは、家畜小屋の飼い葉桶の中に
 生まれたばかりの赤ちゃんとして、その姿をお現しになりました。
 そして、イエス・キリストは、その十字架の死と復活によって、
 全世界を死の力から解放してくださいました。
 イエス・キリストによって人は死んでも生きる永遠の命を

 生きられるようになりました。
 このイエス・キリストこそ、わたしたちの救い主です。

2016年  11月のメッセージ

『 ユダの失敗 』

『さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエス
 を死刑にするために協議した。それから、イエスを縛って
 連れ出し、総督ピラトに引き渡した。そのとき、イエスを
 売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、
 銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
 「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と
 言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。
 自分で始末することだ」と言った。それで、彼は銀貨を
 神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、
 首をつった。』
 
                   
 マタイの福音書27章1-5節

「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」   イエス・キリストがユダヤの裁判で死刑に定められ、当時ユダヤを支配していたローマの裁判に引き渡されるタイミングになって、ユダは自分の犯した罪に気づきました。イエス・キリストが死に定められたのを知ってから、ユダは、イエス・キリストを裏切り、売り渡した自分の罪に気づきました。これまでユダは、イエス・キリストを売り渡すことをユダヤの指導者たちに約束して、その約束通り、最後の晩餐の後にゲツセマネの園でイエス・キリストをユダヤの群衆に引き渡しました。そして、ユダは自分のしたことが間違いであるなどとは考えませんでした。しかし、ここに至って、ユダはイエス・キリストに対して行った自分の間違いを認めています。罪を認めています。

なぜ、ここに至るまでにユダは自分の罪を認めなかったのでしょうか。イエス・キリストが死刑に定められるまでに自分の間違いを認めなかったのでしょうか。本来ならユダが自分の罪を認めることとイエス・キリストが死刑に定められることは別のことです。イエス・キリストが死刑に定められようと定められまいと、どのような結果になろうと、ユダはイエス・キリストを裏切るという罪を犯したのであり、その罪をユダは認めて悔い改めるべきでした。しかしユダは、イエス・キリストが死刑に定められたことを知るまで罪を認めませんでした。ユダは、イエス・キリストは捕まっても殺されることはないと考えていたのでした。イエス・キリストは捕まってもそこから抜け出て新しい事を始めると考えていたのでした。しかし、ユダの考えたようにはなりませんでした。そして、ユダの計画はユダと共に倒れました。

このユダのように物事の結果だけを見て行動していると(結果重視の道徳観をもっていると、思い通りにならない事が起きると倒れてしまい立ち上がることができなくなってしまいます。「何をするのか」という結果と共に、「如何に生きるのか」という過程を大切にしましょう。

2016年  10月のメッセージ

 『 カヤパによる審問 』

 「さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、
              イエスを訴える偽証を求めていた。」 
                 マタイの福音書26章59節

 この祭司長と全議会による裁判は、イエス・キリストの死刑という
判決を目的にした偽証にもとづく裁判でした。偽証とは、偽りの証言のことです。ひらたく言えば、嘘のことです。この嘘にもとづいて下される裁きは偽りの裁きです。そこでは正しい人が悪い人とされて、悪い人が正しい人とされます。 真実は闇の中に隠されて、正義が打ち倒されて、神の栄光が汚されて、人の尊厳が傷つけられます。そのような嘘によって成り立つ裁判を開くことは、この祭司長と全議会がもっとも避けなければならないことでした。しかし、彼らは嘘に陥り、イエス・キリストには死刑しかないと決めつけることで偽りの裁判を行いました。 それで、この祭司長や全議会の意向を汲んで偽りの証言をする者たちが次々に出廷してきました。


 箴言にはこのようなことばがあります。「支配者が偽りのこどばに 聞き入るなら、従者たちもみな悪者になる(箴言2912)」。祭司長や全議会のように権威ある者たちが間違った道に進めば、その権威の下で生きている者たちも間違った道を進むようになります。そしてこの権威ある者たちはますます間違った道に進むことになります。これはどんな社会でも言えることですが、指導的立場にある人や指導的立場になくても影響力を持つ人は、自分のことを正して戒めてくれる人を周りに 見つけることがなかなか出来ません。ですから、普通の人が決めつける ことも危険ですが、指導的立場にある人や影響力を持つ人が決めるつけることは特に危険です。このイエス・キリストに対するカヤパによる審問は、決めるつけるものでした。

 このように罪がないのに罪があると決めつけるカヤパの審問により、イエス・キリストは、私たち人間の罪を代わりに負って裁かれる十字架の死へ向かわれました。このイエス・キリストの十字架の死は、罪の ない神の御子が罪人として裁かれる身代わりの死だったのです。

2016年  9月のメッセージ

  『 取って食べなさい 』

  また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、
  これを裂き、弟子たちに与えて言われた。
  『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』。

                      マタイの福音書2626

 イエス・キリストは十字架につけられる前の夜、弟子たちと
 過越の食事を食べていたときに、パンを取り、祝福して、
 それを裂き、弟子たちに与えて言われました。
 「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
 このイエス・キリストが裂いたのは、ただのパンです。

 しかしこのパンは、翌日に十字架の上で裂かれる
 イエス・キリストの身体を指し示していました。
 このパンは、人を罪から救うために十字架で裂かれる
 イエス・キリストの身体の象徴でした。

 このパンを裂いてからイエス・キリストはこう言われました。
 「これはわたしのからだです」。イエス・キリストが
 人の代わりに十字架で死ぬことを、この裂かれたパンは
 教えています。

 では、このイエス・キリストの十字架によって罪から救われる
 ために、私たちはどうすれば良いのでしょうか。

 人はどうすれば罪から救われるのでしょうか。

 その答は「取って食べる」ということです。
 あたかも幼い子どもが食卓の向こう側から母親の差し出した
 パンを取って食べるように、このイエス・キリストのことばを
 信頼し「取って食べる」ことで救われます。

 信仰とは、難しいことではありません。信仰とは、私たちの
 ために十字架に死んで復活したイエス・キリストのことばを
 信頼し従うことです。

 イエス・キリストのことばを信頼し従うことで罪から救われる
 ことを、イエス・キリストの裂かれた身体を示すパンは
 教えています。

 教会では、イエス・キリストに結ばれる洗礼に与った
 者たちが、杯とともに配られるパンを受ける聖餐に与って
 います。
 これは、イエス・キリストと交わり、その救いを感謝する時です。


2016年  8月のメッセージ

 『 忠実なしもべ 』

 「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人の
  ようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、
  ひとりにはニタラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから
  旅に出かけた。
                      マタイの福音書2514-15


  この3人のしもべたちは、それぞれに5タラント、2タラント、
 1タラントを主人から預けられました。1タラントは約
6,000万円
  に当たり3人のしもべたちはそれぞれの能力に従い財産を預けられ
  ました。主人は、3人のしもべたちが預けられた財産を元手にして
  働くのを期待し信頼していました。そして5タラント預かった
  しもべと2タラント預かったしもべは出て行って商売をし、
  それぞれ更に5タラントと2タラントもうけました。
 
100%増しの利益をあげました。
  しかし1タラント預かったしもべは出て行くと地を掘って、
  その主人の金を隠しました。あたかも自分は主人から財産を
  預かっていないかのように立ち振る舞いました。

 しばらくして主人は帰って来て彼らと清算をしました。
 そして5タラント預かったしもべと2タラント預かったしもべには
 「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言って、更に多くの財産を
 任せました。しかし1タラント預かったしもべには、
 「悪いなまけもののしもべだ」と言って、そのしもべが預かって
 いた1タラントを取り上げてしまいました。
 このように主人から預けられていた財産を用いて働いた
 しもべたちは、主人からしもべとして更に認められ、
 大きな報酬を受けとりました。
 しかし、主人から預けられていた財産を用いず働かなかった
 しもべは、主人からしもべとしての立場と財産のすべてを
 取り上げられました。
 この3人を分けたのは、主人からの期待と信頼を喜んで働いたのか
 そうしなかったのかの違いです。

 このイエス・キリストのたとえで教えられているように、
 どのような働きであれ、自分が神から期待され信頼されている
 ことを喜んで働く所に、私たち人間の生きる豊かさがあります。


2016年  7月のメッセージ

『 賢いしもべ     宗田信一牧師

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
   
           マタイの福音書書251-4

この「花婿を迎える十人の娘」は今で言うブライドメイドのことです。結婚式において花嫁のすぐ傍らにいて花嫁の身の周りの世話をするブライドメイドがこの「花婿を迎える十人の娘」です。この十人の娘たちは外から見れば何の変わりもなくみな同じように働いています。しかしこの十人の娘を賢さと愚かさに分ける決定的な違いがあります。それは、ともしびをつけるための油を用意しているのか用意していないのかという違いです。愚かな娘たちは、ともしびを持っていましたが油を用意していませんでした。しかし賢い娘たちは自分のともしびと一緒にほかの入れ物に油も用意していました。そして花婿の迎えが遅れて夜中になり、油を持っていない愚かな娘たちは、花嫁とともに花婿の招く結婚披露宴へ行くことができませんでした。しかし、油を持っていた賢い娘たちは、結婚披露宴へ行くことができました。

この賢い娘たちのように、ともしびと一緒に油も用意しておくことは小さなことかもしれません。ほかの入れ物に油を入れて持っておくことは他人の目には留まらない細かいことかもしれません。しかし、その小さな細かなことが、その娘が賢いのか愚かなのかを決めました。そのような来るべき事柄に対する見通しがあるのかないのか、その来るべき事柄への準備ができているのかできていないのかが彼女たちの評価を分けました。本当に重要なことは人の目には小さなことのように見えることがあります。あってもなくても同じと思えることの中に時として真理があります。人生の最後、世界の終りの来るべき事柄に対する見通しがあるのかないのか、その来るべき事柄への準備ができているのかできていないのか、そこに人の賢さや愚かさが現れると、イエス・キリストは、この天の御国のたとえで教えておられます。



2016年  6月のメッセージ

『信仰による救い    宗田信一牧師

しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、
 ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
 ということを知ったからこそ、
  私たちもキリスト・イエスを信じたのです。

   
               ガラテヤ書216

使徒パウロ(元サウロ)は、ユダヤの最高学府で律法を勉強して、律法を厳格に守り、人々から敬われていました。その熱心さはイエス・キリストの教えを広めたキリスト教徒を迫害したほどでした。しかし、パウロは、復活のキリストと出会い、人が救われるのは行いによるのではなく、信仰によることを知りました。人は律法の行いをしたから救われるのではなく、キリストを信じることで救われることを知りました。そして、キリストを信じたパウロは、感謝の応答として、律法の行いをするようになりました。「行ったから救われるのではなく、救われたから行う」。パウロの生き方はそれまでとは全く変わりました。救われるために律法の行いをするのを止め、キリストを信じる信仰により救われたことを感謝して律法の行いをするようになりました。

「~しなければ救われない」と律法の行いで自分をがんじがらめにする生き方には、正しい行いをする満足感はあっても自由と喜びがありません。しかし、神に感謝して「~せずにはいられない」と律法の行いに励む生き方には、正しい行いをする満足感とともに自由と喜びがあります。あなたの人生には自由と喜びがあるでしょうか。イエス・キリストは私たちを信仰によって救い、私たちが感謝して「~せずにはいられない」と律法の行いに励むことができるようにしてくださいます。正しい行いをする満足感とともに自由と喜びを与えてくださいます。あたなも私たちに自由と喜びを与えるイエス・キリストを信じてみませんか。



2016年  5月のメッセージ

『神の前に尊い者    宗田信一牧師

「あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」             マタイの福音書1812-14

人が天の御国に入れられることは、迷った一匹の羊が飼い主によって探され、見つけられ、連れ戻され、喜ばれることにたとえられます。人は自分の力によって天の御国に入るのではありません。自分ではどうにもならない遠くまで神のもとから離れてしまい、そのままでは崖から落ちるか狼に襲われるかして死ぬしかない羊のようだったのに、そこまで伸ばされた神の御手によって人は救い出されます。人は、神の恵みのゆえにイエス・キリストの十字架の贖いによって天の御国に入れられます。そしてその時、天において喜びが満ちあふれます。

今から2000年前にイエス・キリストがこの地上にお生まれになったのも、迷っている羊のような私たちを救い、天の御国に入れるためでした。神の御子キリストは、私たちのために天から地に降り、人となり、人の間に住まわれました。そしてその十字架の死と復活により、私たちの罪を赦し、私たちに永遠の生命を約束する「救いの道」となられました。誰でも、この「救いの道」であるイエス・キリストの御声に聴いて従うなら、天の御国に入れます。この地上で、天の御国の市民として永遠の自由と喜びと安息をもって生きることができます。


2016年  4月のメッセージ

『黄金律    宗田信一牧師

 『それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、
      ほかの人にもそのようにしなさい。
           これが律法であり預言者です。』

   
              マタイの福音書 7章 12

 聖書の中には「~してはならない」という禁止の命令が多く
 記されています。神がモーセに与えられた十戒では、
 殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、
 偽証をしてはならない、隣人のものを欲しがってはならない、
 と禁止の命令が繰り返されています。
 
 しかし、それらの禁止の命令には「~しなさい」という肯定の
 命令が含まれています。聖書の中の「~してはならない」という
 禁止命令は、「~しなさい」という肯定命令でもあります。
 大事なのは、禁止命令の背後にある肯定命令を受け止めることです。
 そして、もっと大事なのは、この神の命令にいやいやながら
 従うのではなく自ら喜んで従うことです。
 「~せずにはいられない」という制限のない自由と喜びを
 もって従うことです。

 この「~せずにはいられない」という制限のない自由と喜びは、
 イエス・キリストの地上の33年の生涯によって完全に現され
 ました。神の御子キリストは、神であられる方なのに、
 自ら喜んで天から地に降り、人となり、人の間に住んで、
 自ら喜んで人の代わりに十字架にかかって罪の罰を受けて
 死なれました。そして、その十字架の死と復活によって、
 人が罪を赦されて永遠の生命を与えられる救いの道となられました。
 このイエス・キリストを自分の唯一の救い主と信じ
 イエス・キリストに結ばれるなら、私たちも自ら喜んで
 神の命令に従うことができます。
 人を救うために十字架に向かわれたイエス・キリストのように、
 私たちも「~せずにはいられない」という制限のない自由と
 喜びをもって神に従うことができます。


2016年  3月のメッセージ

天の御国の広がり    宗田信一牧師

「イエスは、また別のたとえを話された。『天の御国は、パン種の
 ようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に
 入れると、全体がふくらんで来ます。』」

   
              マタイの福音書 13章33

 ❝天の御国❞とは、神の国、神のご支配のことです。
 「天の御国」は、疲れている人、重荷を負っている人が
 そこに行って休むことのできる所、あらゆる人の肉体と魂に
 安らぎを与えてくださる神が支配しておられる所です。
 神の永遠の安息と自由と喜びが満ちている所です。
 この「天の御国」を私たちの心と生活と人生に与えるために、
 イエス・キリストは私たちの住む世界にやって来られ、
 十字架にかかって死なれ、その死から三日目に復活
 されました。
                                                              

 このイエス・キリストが与えてくださる「天の御国」は、
 ❝パン粉の中のパン種❞のように、「誰にも見えない」で
 「誰からも邪魔されない」で私たちの中で広がります。
 「天の御国」の広がりは、神の密かな働きなので「誰にも見えない」
 ものです。私たち自身にも見えません。
 しかし、「天の御国」の広がりは神が始められたので
 「誰にも邪魔されない」で進められます。
 神の永遠の安息と自由と喜びは、私たちの心と生活と人生の中で
 確実に広がっていきます。
 

 ただ、ここには条件があります。「私たちがキリストの恵みを信頼するなら」
 という条件です。

 神がイエス・キリストによって差し出してくださった「天の御国」を
 素直に信頼し受け取ることが求められます。
 神の前に心を頑なにするのではなく、すり潰されたパン粉のように、
 へりくだった心でキリストの恵みを信頼するなら、
 私たちの中で「天の御国」は広がります。
 神の永遠の安息と自由と喜びは、へりくだってキリストの恵みを
 信頼する者に与えられます。


2016年  2月のメッセージ

実を結ぶ聞き方    宗田信一牧師

ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます       
   
              マタイの福音書 1323

 神のみことばを聞く人は4つの型に分けられるとイエス・キリストは言われました。第一は、「完全拒絶型」の人です。この人は、みことばに対して聞く耳を持っていないので、みことばが心の中に留まるということはありません。人を惑わす悪い者がやってきて、みことばを奪っていきます。また第二は、「初期受入型」の人です。この人は、初めは喜んでみことばを受け入れますが、心の中に岩のように頑なな心があるので、苦しいことや大変なことがあるとすぐに躓いてしまいます。また第三は、「二心損失型」の人です。この人は、世の心遣いや世の富によって惑わされるので、みことばの意味を知って恵まれるということがありません。しかし第四は、「従順恩恵型」の人です。この人は、熱心に、へりくだって、みことばを聞くので、みことばの意味がよく分かり、そこで神からの恵みを十分に受けることが出来ます。

 イエス・キリストが私たちに求めておられるのは「従順恩恵型」の聞き方をすることです。みことばを熱心に聞くことについてイエス・キリストは、こう言われました。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます(マタイ7:7)。また、みことばを遜って聞くことについて、こう言われました。天の御国はこのような者(=素直な子ども)たちの国なのです(マタイ19:14)

 あなたも、熱心に、へりくだって、みことばを聞くならば、みことばの意味が分かります。そこで神からの恵みを十分に受けて、人生において豊かな実を結ぶことができます。



2016年  1月のメッセージ

天の御国が近づいた